30℃を超す炎天下、札幌夏祭は真っ盛りで「大通り公園」のビアガーデンでは大ジョッキが飛んでいた。札幌大通り公園を紹介するパンフレットに載っている大通り公園のシンボル「泉」の像-テレビ塔と噴水をバックに、空に両手をひろげた躍動する3人の乙女の像「泉」は、あまりにも有名で、大通り公園といえば誰もが「泉」の構図を思い出すことができる。
その泉の像がある大通西3丁目の一画に、牛乳百萬石突破記念の像「牧童」がある。泉の像や噴水と噴水の回りに憩う市民に目を奪われ、噴水を真ん中にして泉の像と反対の道新ビル側にある「牧童」の像には気が付かないことが多い。
牧童の碑は、華やかな噴水や泉の像とは対象的に、ムクゲの花と繁ったライラックの葉っぱに覆われて目立たず、むしろひっそりとたたずんでいた。
さっぽろ文庫の「札幌の彫刻」に、牧童の彫刻を“クローバーの花輪をかかげた裸の少年と子牛。そこには若々しく躍動する力感があり、澄みきった空気がある。作者は京都生まれで、北海道の自然を愛し、札幌での個展活動のほか、道内に多くの作品を残している”と紹介されている。
この「牧童」の像は、牛乳百万石突破記念として北海道酪農関係者によって建立計画され、峰 孝氏の手で制作されたものである。1956年、昭和31年5月31日に記念式典が行われ、NHK西田直道氏の指揮により酪農讃歌が合唱され、塩野谷平蔵氏のご孫令嬢の手によって幕が引き落とされた、と当時のデーリィマン誌に大きく取り上げられている。
除幕式の挨拶で、塩野谷委員長は「成長してやまない北海道の酪農にとって、まだまだ幼き小学校への入学式とこころえますので、乳牛も仔牛とし、人も少年にし、呼称も親しめる『牧童』として、ひたすら伸びゆく希望の姿にするとともに日本の国の明るい平和な理想郷を建設する願いをこめて、『乳と蜜の流れる郷』にと刻みこみました」と語っている。
全長3㍍(像1.5㍍、台座1.5㍍)の牧童の碑の正面には「乳と蜜の流れる郷に」と石文が刻まれ、側面には黒沢酉蔵氏の筆による「牧童」が刻まれている。
「乳と蜜の流れる郷に」は深沢吉平氏の筆であるという。なんと響きのいい、美しいことばではなかろうか。以前からこの石文が気になっていたのだが、このことばは旧約聖書にあることばだそうだ。旧約聖書からの文をとったいきさつは、はかり知ることができないが、当時の酪農関係者たちがいかに北海道が「乳と蜜の流れる豊かな郷」になることを切に願っていたかがうかがわれる石文だ。
昭和30年の北海道の家畜飼養戸数は39,200戸、飼養頭数88,950頭、一戸当たり頭数は2.3頭。30年の生乳生産量210,964㌧。
昭和30年から40数年間で酪農家戸数は1/4に減少し、1戸当たり飼養頭数は約37倍、生産量は17倍になった。これは当時の方々が想像も出来ない数字であろう。北海道の酪農は現在、「乳と蜜の流れる郷」になったと言えるであろうか。その答えは、酪農家や酪農関係者それぞれの胸の中にあるのではなかろうか。(W記)

7月の晴天の日曜日、“サッポロさとらんど”はすでに大勢の家族連れで広場は活気に満ちていた。よちよち歩きの赤ちゃんから走り回ってる子供、ボール投げして歓声を上げてる子供、車椅子に乗って花畑を見て歩いている人まで、本当に老若男女を問わずあらゆる階層の人々が晴天の下でくつろいでいた。どこからかバーベキューの匂いも漂ってきた。まさに札幌市民181万人の新しい憩いの広場だ。
“サッポロさとらんど”は札幌市が都市と農業の共存を目指して建設した一大農業ゾーンで平成7年7月に、ここ札幌市丘珠にオープンしたもの。当初は40㌶の規模でオープンしたが平成12年には70㌶に拡張され、最終的には100㌶まで整備拡張が予定されて、他の都市に例のない、広大な緑地空間ゾーンとなる。
この“さとらんど”にサツラク農協が建設した“ミルクの郷”が組み込まれていて、このミルクの郷は市乳工場の“ミルクの館”と“牛の館”“手づくり工房”“まきば館”などからなっている。
“牛の館”には、数頭の牛が飼育されていて、隣の部屋には機械搾乳や手搾りが体験できる模擬搾乳施設コーナーがあり、子供達の人気の一つになっている。
その“牛の館”の正面入口近くに札幌牛乳搾取業組合の「創立百年記念之碑」が建立されている。平成7年12月6日に札幌牛乳搾取業組合、サツラク農協の役員や関係者が集まって除幕式が行われ、高島組合長が「北海道酪農の基礎を築いた先輩たちにより作られた組合が百年を迎え、記念碑をミルクの郷に建てられたことは大変うれしい」と挨拶されたことがサツラク農協の機関紙「サツラク・フアミリー」に載っている。
黒の御影石で作られた碑の正面には黒澤信次郎氏の筆による「創立百年記念之碑」が刻まれており、裏には北海道酪農の歴史といってもいい「札幌牛乳搾取業組合」の100年の歴史が長い石文で刻まれている。石文には“札幌牛乳搾取業組合の設立は、明治28年に遡る。
今でいう酪農業は明治時代から『牛乳搾取業』と名付けられた”と始めに刻まれ、以下先人の業績が綴られている。
“開拓顧問エドウィン・ダンの指導もあって『酪農の父』宇都宮仙太郎をはじめ多くの酪農家が生まれ、札幌は西洋文化を受けつぐ酪農のメッカとなった”(中略)
“今日のサツラク農協、雪印乳業、明治乳業の礎を築き酪農と乳業を結んで、発展する北海道酪農王国の基礎を築いたのはこの組合の人々である”と先人を讃え、その遺産を引き継いでいることの誇り高い言葉が刻まれている。
また記念碑の建立と共に記念史が発刊されており、史には“本組合は、創立当時は、サッポロビール会社から払い下げを受けるビール粕を餌として牛乳を搾る搾取業者を中心とした集まりから始まり、毎月4日に集会を持ち”それ故に『4日会』とも言われ、初代組合長は宇都宮仙太郎であった、など百年の回顧が語られている。
“さとらんど”に足を運んだなら「先人の英知と偉業を顕し、記念碑を建立する」と碑文を結んでいる立派な碑を見て、そして碑文の字面を追って先人を偲んでほしいものだ。(W記)
10月中旬の真駒内中央公園はすっかり秋の様相を見せ、地面は紅葉した落ち葉で満ちていた。母親と一緒の子供たちは遊具ではしゃぎ、老夫婦は秋晴れの陽を惜しむかのように散歩していた。この公園の一角にある、紅葉と牧柵に囲まれたエドウィン・ダン記念館をキャンバスに描くグループがあった。
この記念館は当時の真駒内種畜場庁舎事務所を移転したもので、館内にはエドウィン・ダン(1848~1931)に関する資料とダンの生涯と事績を描いた一木万寿三氏の油絵が展示されている。
この公園の中央に5㍍もあろうかと思われる大きなエドウィン・ダンの像がある。ダンの像の製作者は大通り公園にある「牧童」の像と同じ峰孝氏の作である。ブロンズ像は、作業服を着て、長靴を履き、左肩に子羊を担ぎ、右手にヘイフォークを持ったがっちりしたダンの姿だ。
ダンは1873年(明治6年)北海道開拓使が米国で購入した牛42頭とめん羊100頭を日本に輸送してきた。左肩の羊はそのことであろうか。
6角柱の台座にはレリーフがほどこされ、「笹の葉と狼、どさんこ馬とそれを追うアイヌ人、時計台も見えるダンの住居、北大第2農場など、ダンの世界が画かれ……面をくぎる牧柵も堅牢で野生的だ。……正面レリ-フには牛を引く知事の父町村金弥の姿もある」(札幌の彫刻)。この像の前に、大きなダンの像とは対照的に小さな御影石の碑があり、その碑にダンの功績が刻まれてある。その碑文を紹介しよう。
「エドウィン・ダン氏は明治6年開拓使が米国に求めた家畜を輸送して来日してから引きつづきその嘱を受けて北海道農業指導の任にあたり、ことに明治8年以来北海道にあって七重牧場、真駒内種牛場、新冠種馬場、札幌牧羊場などを開設してその経営にあたり、家畜の飼育、牧草、甜菜、亜麻などの栽培、土地の改良、畜力農具の使用、畜産物の加工などあらゆる新技術を実地に伝えた。北海道は実にその基礎の上に榮えたのである。
明治15年任期満了後も日本に止り、昭和6年84歳で長逝されるまで我国の外交、産業、文化の発展のために全生涯を捧げられた。その恩澤は永遠に忘るべからざるものである。
今その偉大なる功績を永遠に伝えんがために、この像を建立する。
昭和39年10月
エドウィン・ダン顕彰会」
エドウィン・ダン顕彰会は昭和37年に設立され、後に財団法人ダンと町村記念事業協会と改称された。
真駒内種畜牧場は終戦後昭和20年に閉じられたが、70年間、ホルスタイン種の乳牛改良に大きな役割を果たし、日本の酪農の技術的中心地として大きな足跡を残した。エドウィン・ダンとともに真駒内牧場は忘れてはならない歴史である。
真駒内にはアイスアリーナやさけ科学館などもあるが、エドウィン・ダン記念館に立ち寄り、ダンの像と共に「ダンが指導して造らせた歴史を秘めた牧柵(牧柵の夢:吉田稔著)」に触れてみては如何でしょうか。(記:渡辺)
エドウィン・ダンの像
碑文が刻まれてある碑
歴史を秘めた牧柵と記念館

早来町にある北海道ホルスタイン共進会場の一画にローマンデール カウント クリスタンの銅像が建てられている。
北海道の2大共進会-春のB・Wショウと秋の北海道ホルスタインナショナルショウが行われているこの場所に、クリスタンの銅像が建立されているのは、クリスタンが日本の乳牛改良に果たした功績や、共進会で一世を風靡したことを思うと最も相応しい姿だ。 碑の正面には英文字で
Romandale Count Crystan
Ex-ST 93.0
1968.12.8~1979.8.27
The greatest in the century
is gone but faithfully
reproduced the best of
his inheritance
Stephne B,Roman
と刻まれてある。
「最も偉大な世紀の種雄牛 クリスタンは逝く 父母から受け継がれた最高の血液をこの世に忠実に残している スティーブン・B・ローマン」
と名文に訳され、国際的な名牛を偲ばせている。
そして碑の裏側にはクリスタンを讃える碑文が刻まれてあり、これが「酪農の碑」として相応しく思えるので全文載せることにしよう。
「愛称クリスタンと呼ばれたこの種牡牛は昭和43年12月8日カナダ ローマンデール牧場に生まれ、昭和45年4月北海道ホルスタイン農業協同組合家畜人工授精所へ輸入され、その後昭和46年8月当社設立に伴い同組合より移譲を受けた。
父は不世出の名種牡牛ABCを父方に持つローザフ サイテーション R、母はオールアメリカンに輝いたグレービュー ペット クリスタである。
ラグアップル系とバーク系の名牛間における絶妙な配合から生まれた傑作牛で、93点の高得点が示すとおり優れた体型と資質を持っている。
娘牛には高能力および体型特に乳器の改良には未だ類をみない抜群の遺伝力を発揮し、数々の名牛を作出した。
日本はもとより世界各国から世紀の名牛と称えられたが、昭和54年8月27日没した。
株式会社ジャパンホルスタイン
ブリーデングサービス
取締役社長 宇都宮 勤
昭和54年11月建立」
クリスタンの功績
クリスタンの娘は若齢時にはやや小柄でのびの足りないところもあったが、初産を分娩して乳房がついてからは体型がシャープとなり、デーリィキャラクターに富み、特に乳房の前後の付着が広く、高く、強く理想的な乳器となった(ひとすじのみちJHBS10年誌)。すなわち共進会で乳房がついてからのクリスタンはベストアダー牛になってトップをとり一段と脚光を浴びるようになった。体型審査を受けては続々とエクセレントを出して、長い間酪農家の人気を集めた。
その中でアーギー ローモント クリスタン(芽室町鈴木力所有)とホープ スカイラーク クリスタン(奈井江町北良治)は当時の国産最高得点94点を得て、つい最近まで最高得点牛だった。高得点牛を世に送り出したこともさることながら何と言ってもクリスタンは共進会で活躍し、一世を風靡したことである。
昭和49年北海道ホルスタイン共進会で経産クラスのクリスタンの娘が入賞して注目されるようになり、その後北海道ホルスタイン共進会の最高位を連覇するようになる。
コバ コマンダー バーク クリスタン(91点:猿仏村木村章)が昭和51年、52年に連続最高位になり、54年にナルセファーム ローズ クリス エデン(92点:芽室町鈴木力)が、55年にはヘンドリカ デイクテーター クリスタン(早来町竹田幸夫)、続いて56年にホープ スカイラーク クリスタンが最高位を連覇している。
中でも昭和53年の北海道総合畜産共進会はクリスタンの独壇場であった。この年は最高位が雄のみであったため、クリスタンの娘の最高位はなかったが、経産牛の各部門で1位を獲得し4歳、5歳クラスでは1位、2位、3位を独占した。続いてこの年の11月に北海道ホルスタイン共進会場の落成記念として行われた共進会でも同様の活躍であった。この翌年昭和54年8月にクリスタンは没し、そしてこの地にクリスタンの銅像が立った。
全日本ホルスタイン共進会での活躍は昭和50年の第6回(兵庫県淡路島)に始まり、昭和56年の第7回(群馬県前橋市)での活躍は素晴らしく、特に経産牛の部ではクリスタンの独壇場であった。第5部2歳級、第6部3歳級、第7部4歳級でのトップ牛はクリスタンの娘であり、7部にあっては1、2、3位牛がクリスタンで占め、1位のハイローン サイテーション レッド(早来町楠木英仁)は名誉賞に輝いた。そして、9部の父系牛群でもクリスタンが名誉賞になった。第11部乳器でも名誉賞はクリスタンでそれも2産以上泌乳中のものでは上位4頭がクリスタンで占めた。
このようにクリスタンは共進会の活躍とともに体型を改良した牛として、あまりにもイメージが強いためか、能力はマイナスのイメージがどこかにある。勿論、マイナスなどではない。
1泌乳期でみれば、他の種雄牛の後塵を踏んでいるかもしれないが、生涯の能力は決してそうではない。平成2年発行の「日本ホルスタイン優秀牛名鑑」をみると、クリスタンは生涯能力では上位であり、特に生涯乳脂量ではフロンテイア クリスタ マット マダム(恵庭市清水勝)やオリエンタル クリスタル メー(名寄市後藤賢治)などは上位の成績だ。そしてこれらの牛はきまって高得点牛なのだ。
また、雌牛の活躍ばかりでなく、息牛のローマンデール クリスタル カウントが後継牛としてクリスタンの遺伝を強力に受け継ぎ、活躍したこともみのがせない。
クリスタンの人気は上がるばかりで、1ccストローの時は注文に応じきれず苦労しどおしだったといい、クリスタンが亡くなってからも人気は強くストックの精液が少なくなった頃には、ストロー一本の取引が巷では10万円しているなどと取りざたされた。今では信じられない価格である。
クリスタンは乳牛改良に多大な貢献をしたことは勿論だが、娘牛が高値で取引され、酪農家の経済を潤した。もう一方で「ひとすじのみちJHBS10年」誌の座談会で“クリスタンは会社の身代の半分以上を稼いだ”と語っているとおり、JHBS社の経営を潤したこともまた大きなクリスタンの功績だ。
それがためにクリスタンの銅像が早来町の「北海道ホルスタイン共進会場」に建立されている他に、上野幌の旧JHBS跡地と現在のJHBSの玄関前に堂々とある所以であろう。(記:渡辺)
北海道ホルスタイン共進会場小公園にあるクリスタンの銅像
製作者:峯孝氏

昨年の11月下旬、親戚の結婚式のため羽田空港に下りる機会があったのを利用して、「日本酪農発祥の地」として知られる千葉県嶺岡乳牛試験場まで足をのばした。
JR京葉線に乗って千葉市付近まで来て、4年前の11月の同じころ千葉ポートパークで全日本ホルスタイン共進会が行われたことを思い出した。全日本共進会は勤労感謝の日が開会日であったから2日前ではあるが時を同じくして千葉県の「日本酪農の発祥の地」を尋ねることになった。
千葉県嶺岡乳牛試験場には平成2年の桜がちらほら咲き始めた3月に、乳牛の審査の研修に訪れたことがある。その時、日本ホルスタイン登録協会の審査員S氏から「日本酪農發祥之地」記念碑の存在を知らされたが、それほど気にとめていなかった。
「日本酪農發祥之地」碑は嶺岡乳牛試験場事務所の庭に建立されてある。
というよりも、巨大な石がどっしりと存在していると表現したほうが適当のようだ。高さが2㍍、横3㍍、幅2㍍もあろうかと思われる巨大な地元産出の堆積岩である。表面に出ているだけでもこの大きさだから土に埋まっていることを考えると、どれほど大きいものか想像できない。石碑には白牛が彫刻されてあり、石文としては
「日本酪農發祥之地」
大蔵大臣水田三喜男書
安房酪農百年史編纂委員会
昭和36年8月建立
と刻まれてあるだけである。
この石碑の建立は石に刻まれてあるとおり安房酪農百年史編纂委員会であり、建立と同年の昭和36年3月に百年史が発行されている。編集委員であり発行人である安房郡畜産農業協同組合長金木精一氏(後の日本ホルスタイン登録協会会長:昭和40年~43年)は発刊の言葉で 「安房は牛の国、乳の郷であり、酪農王国たることを自他共に認めており、これを誇りとしている……享保年間徳川八代将軍時代に印度から渡来した白牛を此処に放牧し、白牛酪を製造したことが、安房酪農の誕生であり、わが国酪農の発祥である。換言すれば、わが国酪農の発祥の地は嶺岡牧場である」と由来と気概を語り、さらに「私達はその先人の業績を尋ね、これを学びこれを継承して更に後人に伝え、ますます斯業の発展を期すべき義務と責務がある」と百年史編纂の意義が語られてある。同じくこれが碑を建立した理由でもあろう。
千葉県嶺岡乳牛試験場は長い歴史を持っているが、現在は種雄牛7頭と搾乳牛20数頭、採卵用牛20数頭など50数頭の雌牛が飼われており、県下の牛群検定酪農家に優良卵を配付し、県の酪農研究機関として乳牛改良の使命を果たしている。
以前にここ嶺岡乳牛式験場を訪れた時には無かった市民と酪農とのふれあいの公園「千葉県酪農のさと」が建設されてあった。その中心核となる「酪農資料館」が平成6年にオープンし、酪農の広場にはめん羊と白牛が放されていた。
ここに放されている白牛は八代将軍徳川吉宗公が享保13年(1728年)に白牛を嶺岡に放牧した末裔ではなく、「千葉県酪農のさと」のシンボルとして平成9年にアメリカから輸入した5頭のゼブー種牛で、現在増えて10頭が放されていた。(記:渡辺)
「日本酪農發祥之地」碑
酪農のさと「酪農資料館」
放牧されている白牛:ゼブー種
いかにも「酪農の碑」らしい“牛歩”の碑名がついた記念碑が早来町遠浅にある。この碑は遠浅酪農入植50周年を記念して、昭和59年5月に建てられたもので、これと同時に“牛歩”遠浅酪農50年史も発行された。
“牛歩”の碑は北海道ホルスタイン共進会場の南側、遠浅地区の中心地を走る俗にいう酪農道路(金川牧場から山田牧場を通って遠浅駅へ抜ける道路)沿いの、富樫牧場の近くのちょとした広場に建立されてある。
地面から1.5㍍くらいの高さと横2㍍くらいの御影石の石碑だ。碑には、宇都宮賞の第1回乳牛改良の部で受賞した山田哲氏の筆による“牛歩”の碑名と年代を追って50年の歴史を記した碑文がびっしり書き込まれてある。
「1930(昭和5)年入植。先人の意を継いで酪農理想郷の完成を目指して50年を歩む」と冒頭に書かれてあるように、昭和5年に滝川町や新十津川村から移住した人達32戸が不毛の火山灰の地に鍬をいれた。
「1947(昭和22)年。青年達が中心となり、牛歩会を結成した」とあるように碑の題名は遠浅酪農の青年達が作った“牛歩会”の牛歩だ。
そして碑には「乳牛改良、経営改善などの研鑽を計る。翌1948(昭和23)年。遠浅酪農協同組合を設立。人工授精事業・集乳事業などを行う。又、経済検定組合も設立され、めざましい成果を上げる。乳牛共進会では、数度の全道団体優勝をなし、朝日農業賞の栄誉にも輝く」と活躍が記されてある。
この朝日農業賞を記念し、また40周年を記念して昭和45年に遠浅酪農史が編纂され、その発刊にあたり当時のホルスタイン農協 宇都宮勤組合長がお祝いの文を寄せている。
それには「遠浅酪農の全身である滝川酪農社が最初に純血種を導入したのが明治45年で、遠浅ホルスタインの歴史はここから発祥し、今日までほぼ60年を歴している。遠浅といえばマダム、マダムといえば遠浅というように、マダムは遠浅の代名詞になっている。……遠浅を無視して北海道の乳牛を語ることはできない。それだけに遠浅酪農の使命は重い。わが国における基礎種牛の供給基地として、また乳牛改良の主導的存在として、今後に課せられた責任は重大である」と乳牛改良に果してきた役割の大きさを讃えている。
私がホル農協に席を置いた昭和30年後半には遠浅は優良牛の生産基地として、北海道ホルスタイン共進会での活躍は素晴らしく、そして40年、50年台まで不動の地位を確保してきた。即ち、北海道ホルスタイン共進会はいうにおよばず、第3回全日本共進会(昭和36年:長野県)で未経産の部で名誉賞を獲得し、以降第7回まで出場して名誉賞なり、優等賞を獲得した。そして北海道を代表して日本酪農界に遠浅乳牛の存在をアピールしてきた。
不毛の地を緑に変えたこの地を当時の歴代の北海道開発長官は必ず視察したともいわれ、昭和41年には佐藤首相が遠浅を訪れ、また北海道100年記念には岸元首相が訪れるなど、その酪農の発展ぶりを視察している。
しかし“牛歩”の碑文に戻って「1969(昭和44年)年。苫東大規模工業団地の土地買収により、5戸の移転組合員を出したことは痛手であった」と刻まれてあるとおり、苫小牧東大規模工業基地開発計画に続き昭和52年の千歳川放水路計画が発表され、議論が活発になるに従い、北海道ホルスタイン共進会での活躍が見られなくなり、第8回全日本共進会(昭和60年:岩手県)では遠浅地区からの出品はなかった。
だが、千歳川放水路計画は見直されており、“牛歩”の碑の冒頭と結びに刻んであるように遠浅酪農は「新しい次の半世紀へと向かって力を合わせて努力し」、尽きることない「酪農理想郷の完成を目指して」いくにちがいない。(記:渡辺)
”聖恩之碑”と並んで”牛歩”の碑