(いしぶみ)

雪印乳業株式会社の前身・酪聯 上野幌にある「酪聯發祥の地」記念碑

2000-04

 上野幌の雪印スケートセンターのそばに「雪印バター誕生の記念館」がある。  晴れた8月の土曜日、「雪印バター誕生の記念館」に立ち寄ったら子供たち5、6人が写生をしていた。芝生に足を広げて座ったり、はいつくばったりの恰好で、レンガ建ての「バター誕生の記念館」や「旧出納陽一邸」や軟石のサイロを思い思いに描いていた。

 写真の「酪聨發祥の地」記念碑は「バター誕生の記念館」と「旧出納陽一邸」の前庭に建っている。大きなオンコの木の根元で、生い茂った植木の中にあり、気をつけないと見逃してしまいそうだ。

 高さは2.5㍍もあるだろうか、40㌢×40㌢位の柱状碑だ。「酪聨發祥の地]と刻まれてあり、石碑の裏側には「昭和33年4月 黒澤酉蔵の書」と刻まれてあるだけで、そのほかに石文なるものは何も刻まれてない。

 「雪印バター誕生の記念館」のパンフレットによると、

大正14年5月 雪印乳業の前身、北海道製酪販売組合設立、宇納農場製酪所を組合の仮工場として借り受ける
大正14年7月 バター製造機器類を据付けバター製造開始
昭和33年5月 当地に「酪聨發祥の地」記念碑建立
昭和56年12月 製酪所建物を解体し、同所に「雪印バター誕生の記念館」という名称で復元

と書かれてある。

 このバター記念館の中に入ると、操業時の機械類を揃え、マネキン人形を使ってここでバターを製造した当時の作業風景等が再現されている。アメリカ留学から帰国した佐藤貢氏(雪印乳業初代社長)がこの地で苦労してバターを作った経緯や、その後の活躍した歴史が写真やパネルとなって紹介されている。

 雪印乳業会社の前身・北海道製酪販売組合が設立された当時の社会・酪農情勢を「雪印乳業史」を借りて覗いてみると、大正12年に関東大震災が発生し、我が国の経済界に打撃をあたえ、酪農界にも大恐慌をもたらしていたという。

 「政府は大震災による物資の欠乏を補い価格の暴騰を防ぐため、関税の撤廃を断行した結果……乳製品市況の悪化により、事業不振に直面した練乳・製菓会社は乳価を引下げるとともに、練乳用の牛乳検査を非常に厳格に実施し、酪農家に深刻な影響を与えた。したがって練乳会社に対する酪農家の意思表示機関の設定、2等乳過剰問題などについて根本対策の樹立が急務となった。また大正末期……『農民のための生産組織をもて』というスローガンは広く浸透し、ようやく全道一丸とした組合製酪事業の機運が高まり」、かくて大正14年に宇都宮仙太郎組合長、黒澤酉藏専務理事、佐藤善七常務理事らの体制による北海道製酪販売組合が設立され、翌年の大正15年に全道を区域とした北海道製酪販売組合連合会いわゆる「酪聨」が組織された。そして上野幌の仮工場に各地区からクリームのかたちで送られてきた原料は佐藤貢技師よってバターが製造された。

 それ故に、「酪聨發祥の地」記念碑がこの上野幌の地に建立されている所以だ。  バター記念館のパンフレットを見ながら「旧出納陽一邸」を眺めていると、なんとなく見たことがあるような気がしてきた。昭和40年頃であろうか、雪印種苗上野幌育種場に能力検定に伺ったことがある。種苗は検定頭数が少なかったので、宇都宮牧場とよく掛け持ち(同時に立会)していた。雪印種苗に宿泊するときは事務所(仮工場が種苗の事務所になっていた)の宿泊所であったが、たまたま小生が検定に行ったときは、別な所に泊まったようで、それがこの出納邸のような気がする。そうだとすれば、由緒ある旧出納陽一邸に泊まったことになる。(記:渡辺)


バター記念館(右) と 旧出納陽一邸(左)

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日高山脈を背景に立つ「熊牛百年拓魂之碑」

2000-05

 有珠山が活発に噴煙をあげている様子を連日テレビで放映されている4月上旬、日勝峠から見る眼下の清水町は、この時期未だ一面雪に覆われ、折しも太陽に照らされて眩いばかりの銀世界であった。

 「熊牛百年拓魂之碑」は、すみきった白銀の日高山脈を遠くにして、まだ融けやらぬ十勝の雪野原に凛と聳え建っていた。

 「拓魂之碑」は、180数戸の会員などからなる熊牛地域開拓百年記念事業協賛会によって平成8年12月8日に建立されたもので、高さ7㍍35、基礎部分の横幅と奥行が8㍍×7㍍と道内屈指の超大型モニュメントである。

 建立の場所は、開拓の鍬が最初に下ろされた位置に近いところ、地域住民が折にふれ目に付くような場所が選ばれ、それが熊牛の中心地の、屈足から熊牛~音更にぬける主要道路沿いの熊牛小学校そはであった。車でこの道路を通れば超大型モニュメントがすぐ目に入る。

 除幕式は平成8年12月8日関係者100名が参加して行われ、入植6代目にあたる西倉朱音ちゃん、若原匡二清水町長ら関係者によって幕が下ろされた、と熊牛開拓百年記念事業の一つとして発行された記念誌「熊牛の百年」が伝えている。

 「拓魂之碑」は、10個の石で左右5個づつ積み上げて100年を表現し、最上部をアーチ形として過去から現在そして21世紀へのかけはしを顕し、若原匡二清水町長の揮毫による「熊牛百年拓魂之碑」の上部にある黒曜石でできた半円球は、地域住民の平和と健康の願いがこめられている。

 碑文には「人跡未踏の大自然熊牛地区原野に、明治30年1月30日子爵渋沢栄一氏ほか10名により約3,500萬坪の貸付地予定存地を出願したるに始まり……永々百年、先人の旺盛な力強い開拓精神は、衰えることなく継承され、今日の豊かな郷土熊牛は今もなお隆盛を見るに至っている」と開拓の始まりから100年の経過が記され、「ここに先人の艱難辛苦を偲び開拓の偉業を永遠に顕彰し、この地に生きる喜びをかみしめ限りない未来に向け、より豊かな繁栄を祈念してこの碑を建立する」と碑文は結ばれている。

 また、昭和39年に開拓70周年記念として建立された「開拓記念碑」が、この「熊牛百年拓魂之碑」と並んで建っている。「開拓記念碑」は当初、この熊牛小学校そばの地からは数キロ離れた大勝神社の境内に建立されたものであったが、開拓百年記念事業の一環としてここに移転された。この「開拓記念碑」は北海道知事町村金五の書によるもので、「拓魂之碑」とともに堂々とした様である。

 十勝でも屈指の酪農地帯である清水町。この酪農清水町は早くから乳牛改良に取り組み、優秀な種雄牛や雌牛を生産し、北海道共進会や全日本ホルスタイン共進会でトップの成績を収め、体型審査でも素晴らしい成績を出し、また記録的な泌乳能力を達成した。そして全国各地に優秀な多くの遺伝資源を供給し、乳牛改良に多大な貢献をしてきた。

 紙面の関係上、その中でも貢献した1頭のホルスタイン種牛をあえて挙げるとすれば、それは「マド・コン」として親しまれた種雄牛、カーネーション・マドキャップ・コンケスト号ではなかろうか。この牛の生産地は「熊牛百年拓魂之碑」が建っている熊牛酪農地帯であり、この地の酪農家の中には、酪農における最高の栄誉賞といわれる宇都宮賞や北海道産業貢献賞、天皇杯賞などを受けている方が多い。(記:渡辺)


「熊牛百年拓魂之碑」と70周年「開拓記念碑」

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清水町美蔓にある「乳牛感謝之碑」

2000-06

 日勝峠の展望台に「残雪や峠越えれば酪農村」の句碑がある。勿論展望台から見える酪農村は清水町である。

 この酪農村で、今から52年前の昭和23年9月10日~12日に北海道ホルスタイン協会(塩野谷平蔵会長)主催による第3回北海道畜牛共進会が開催された。

 当時清水町の産業課長であった元清水町長矢地広三氏は平成10年に発刊された清水町酪農百年記念誌「史上に輝く乳牛の郷」に第3回北海道畜牛共進会開催を振りかえって「設立されたばかりの清水、熊牛両農協とも物資不足に苦しむ酪農家の労力奉仕によって共進会はみごとに成功を納めたことは清水町が戦後復興の中で酪農の町としての地歩を確かなものにした第一歩でもあった」と語っている。

 清水町にとって第3回北海道畜牛共進会は酪農の町として出発する第一歩であったが、わがホルスタイン農協にとっても農協誕生の第一歩であった。共進会の会期中の9月11日に北海道ホルスタイン種生産農業協同組合の設立総会が清水小学校講堂で行われた。そういう意味で清水町は北海道ホルスタイン農協(昭和26年に現在の名称に変更)が誕生した町である。誠に縁の深い所と言える。そのホル農協が誕生した清水小学校は、現在移転されていて、そのあと地には文化センターが建っていた。清水町役場と並んだ一丁隣りの区域である。

 清水町は平成9年に酪農100年を迎え、同年9月に清水町酪農100年を記念して祝賀会が催された。記念事業として、清水町役場の庭にモニュメント「母牛と子牛の像」、「銘板碑」を設置したほか、清水町酪農百年記念誌「史上に輝く乳牛の郷」が発刊された。訪れた4月上旬の清水町役場の庭には雪があって、まだ母牛と子牛は牛衣を着ていた。銘板の碑文には、「1899年塩野谷辰造氏が羽帯地区に乳牛を導入して以来百年 多くの先人の開拓者精神により原始の杜を切り開き 牧野にし 優良牛を導入改良を重ね今日の酪農の清水町を築きあげました……限りない未来への発展を記念してこの碑を建立する」と記されてある。役場の庭に乳牛のモニュメントがあるのも酪農の町にふさわしい。

 「開拓記念碑」とか「畜魂之稗」などの碑はあちこちに見られるが、美蔓にある「乳牛感謝之碑」のように感謝の文字が刻まれた石碑はあまり見られないと思っていたところ、清水町にはいくつかあり、御影の碑は「乳牛に感謝」であり、農業研修会館にある碑は「家畜感謝之碑」であった。

 その中でも美蔓にある「乳牛感謝之碑」は酪農の町清水町にふさわしい碑に思え、特に気に入ってしまった。その「乳牛感謝之碑」は清水町の町が一望でき、カリオンが鳴る美蔓の峠を上りきって右へ200㍍ばかり入ったところの美蔓小学校のそばにある。

 4月上旬の美蔓はまだあたり一面雪に覆われて、「乳牛感謝之碑」には道路と庭から雪が押し寄せられて、ようやく「乳牛2,000頭達成記念」の文字が見てとれる状態であった。碑には、自然石にくっきりと、あざやかに黒澤酉蔵の筆による「乳牛感謝之碑」が刻みこまれてあった。

 この碑は美蔓地区乳牛2,000頭突破記念事業として昭和52年に建立されたもので、これと同時に質素な記念誌も発刊され、祝賀会も行われた。

 当時の美蔓酪農振興会長の田中繁雄さんは“乳牛感謝の碑は雪印清水工場にあったのだが、工場の増設で移設しなけばならなくなり、譲り受けて碑を移設したもの”と語っていた。

 “2,000頭突破記念”事業が行われた12年後に、美蔓の乳牛は3,000頭に達し、平成2年1月に“乳牛頭数3,000頭出荷乳量10,000t突破記念”行事が行われた。

 「乳牛感謝之碑」は写真に見られるように“2,000頭突破記念”の銘板の上に“乳牛頭数3,000頭出荷乳量10,000t突破記念”が並んでいる。酪農発展の節目節目に「乳牛感謝之碑」を前にして乳牛に感謝しながら記念行事が行われているのが窺われる。地元酪農家がこよなく愛している碑なのである。私はさらに好きになってしまった。雪印清水工場で誕生した娘が、美蔓に嫁いで美蔓の地で可愛がられて輝いているように思えてきた。そんな碑である。


モニュメント「母牛と子牛」の像と「銘板碑」

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日本酪農の父 宇都宮仙太郎翁 大分県中津市にある「空樽自鳴」碑

2000-07

 “北海道酪農の父”宇都宮仙太郎翁の事績を顕彰し、その事績が継承されることを念願して、昭和42年に設立された(財)宇都宮仙太郎翁顕彰会は、「宇都宮賞」を設けて北海道酪農の発展に貢献した方々3名を毎年「酪農経営の部」「酪農指導の部」「乳牛改良の部」の部門毎に表彰している。

 この誌面の「酪農の碑」を書こうと思いついた時、私が宇都宮顕彰会の事務局を何年か担当したこともあって、当然のように宇都宮仙太郎翁の「空樽自鳴」の碑は真っ先に書くつもりでいた。

 「空樽自鳴」の碑の存在は昭和56年に発行された「空樽自鳴 宇都宮仙太郎物語」を読んで知ったのだが、長い間うかつにも、旧宇都宮牧場があった札幌の厚別上野幌か現在地の長沼町にあるものと思い込んでいた。宇都宮仙太郎翁が北海道で活躍し“北海道酪農の父”として親しまれてきたことを思うと当然、碑は北海道にあると思っても不思議ではない(と慰めているのだが)。

 「酪農の碑」で取り上げようと改めて「空樽自鳴 宇都宮仙太郎物語」を開いて読んでみると、「空樽自鳴」の碑は大分県中津市の大貞公園に建立してある、と明記されてあるではないか。

 今年の5月中旬に九州観光と併せて、「空樽自鳴」の碑を訪ねることにした。はじめて中津市の土を踏む私には、簡単に「空樽自鳴」の碑を見付けることができたわけではなかった。建立されてあるという大貞公園を探し廻ったのだが見当たらず、公園に隣接してある中津競馬場の古老に聞いても、そんなものあるのだろうかくらいで、最初は不安になったりもした。

 おりしも公園をジョギングしてきた女性に尋ねたところ、その女性は大貞公園近くの大幡小学校の校門前に「乳牛のモニュメント」があると言い、そしてその側に何やらそれらしい石碑があって、小学生のときにその碑のことについて学校で教わったことがあると言うではないか。そしてありがたいことに、大幡小学校校門前まで案内してくれた。

 乳牛のモニュメントが建っていた場所は、大貞公園というよりも、大きな池や大きな楠木のある神社の境内(大貞八幡薦神社)であった。ようやく「空樽自鳴」の碑を見付けることができたときは、北海道からはるばる来たということもあって感動してしまった。

 「空樽自鳴」の碑は新緑の葉陰に覆われて、真っ先に目に入った「空樽自鳴」の文字は鮮やかな金色で刻まれてあり、横4㍍、奥行2.5㍍もあるだろう大きな土台部分はいくぶん黒ずみかかり、回りには下草が生えて長い年月を思わせる、どっしりとした趣のある碑であった。

 碑の側に中津市教育委員会が平成10年に案内板を立て、「空樽自鳴」の碑を文化財保存の対象として紹介していた。「空樽自鳴」の左側に写っているのがそれで、案内板の全文を紹介しよう。

 『宇都宮仙太郎は、日本酪農の父といわれています。明治期から昭和期の北海道酪農の指導者で、現在まで続く雪印乳業の創設者のひとりです。

 仙太郎は、慶応2年(1866)、下毛郡大幡村(現在の中津市大字加来)武原文平の2男として生まれ、後に母の実家宇都宮家の養子となりました。

 明治16年(1883)、北海道に渡り農務省真駒内牧場に勤めたのち、渡米して各州牧場やウイスコンシン大学などで酪農技術を学びました。帰国後、牧場経営・バター製造販売のかたわら酪農組合の組合長や顧問などを歴任し、本格的酪農経営に先駆的役割を果たしました。』

 碑が建立された昭和38年は、仙太郎翁が生まれて97年目に当たり、左右5個づつ積んだ10個の長方形の石は、あるいは100年の歴史を顕わしたものであろうか。

 碑の裏面に刻まれてある碑文は長い年月のためか、文字は容易に読み取り難く、歴史を感じさせた。幸いにも、中津市教育委員会が立てた案内板にはその全文が書かれてあり、建立した豊前酪農組合の当時の思いをはかり知れるので紹介しよう。

『日本酪農の父 宇都宮仙太郎翁
慶応2年4月14日
中津市大字加来に生る
大志を抱き明治18年19歳北海道へ
同20年酪農研究のため渡米
各州牧場を歴訪して酪農技術を体得してウイスコンシン大学に入学卒業
同23年帰朝 同39年再度渡米
優秀ホルスタイン種乳牛40余頭を輸入す
 惟うに日本における嚆矢にして乳牛飼育の始祖であり純粋繁殖家としての第一人者である
 又製酪組合を結成して農業酪農化の基礎を作った先驅者でもある
昭和15年3月1日 札幌市厚別町上野幌 宇都宮牧場にて昇天す
 昭和38年3月1日
    豊前酪農業協同組合』

 力強い“空樽自鳴”の書は、昭和11年、宇都宮仙太郎自身が療養中に病床で左手で書いた、と「雪印乳業史」に書かれてある。勿論「宇都宮仙太郎物語」にもこのことが載っている。

 一方、ジョギングの女性が記憶していた乳牛のモニュメントは、大分県北酪農組合が昭和60年に組合35周年を記念して建てたもので、1㍍もの高い台の上にさらに実物大の成牛の像だけに、非常に大きく見える。

 「空樽自鳴」碑を建てたのは豊前酪農組合であり、「乳牛のモニュメント」は大分県北酪農組合であることから、豊前酪農組合は統合変遷して現在の大分県酪農組合中津支所となったのだろうか。

 大分県中津市で日本酪農の父、宇都宮仙太郎翁「空樽自鳴」の碑を見入り、暫し酪農の歴史に思いを馳せた。(記:渡辺)


豊前酪農業協同組合が建立した 「空樽自鳴」 の碑と中津教育委員会が立てた案内板


「空樽自鳴」 の碑と並んで乳牛のモニュメント


大貞八幡薦神社の大きな楠木

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江別市 旧町村農場にある敬貴の銅像と碑 石狩にある「町村農場發祥之地」碑

2000-08

 6月下旬、江別市の旧町村農場公園では強い風が吹いて、アカシヤの花びらが辺り一面に落ち、公園を掃除する人たちをなやましていた。

 長い歴史をほこる町村農場は平成4年に石狩川を渡った篠津地区に移転し、旧町村農場は江別市民の共有財産として保存されて一般に開放された。事務室に置かれている参観者名簿を拝見すると江別市民や札幌市民が多く訪れ、遠くは道東からも見えているのがわかる。

 牛舎には、実際に牧場で使った農器具や「乳牛の像」が展示され、旧町村邸には、町村金弥、敬貴の業績、町村牧場の歴史がパネルなどで紹介・展示されていた。

 20~30年前になろうか、町村農場には幾度か能力検定に出向き、宿泊したのだが、どの部屋であったろうかなどと思いにふけりながら、部屋ごとに整理されてある「北海道酪農の夜明け」「町村農場のはじまり」「町村農場の開花」「北海道酪農の発展」を見て廻った。

 “父・金弥は”という形式でパネル紹介されてあるとおり、また庭には町村敬貴の銅像が建立されであるように町村敬貴がこの農場の主人公である。

 「北海道酪農の夜明け」ではエドウィン・ダンの略歴と功績、町村金弥の歴史と功績、金弥と宇都宮仙太郎の関係について記述されている。

 金弥の功績のパネルには、「父・金弥はエドウィン・ダンから学んだアメリカ式の農場経営を後進に伝えたばかりではない…北海道では中小規模農場経営がふさわしいことを身をもって示した…そして洋式農法について道民を啓蒙し、後に“北海道酪農の基礎を築いた先駆者”と称えられた…最も大きな功績は北海道を代表する宇都宮仙太郎と町村敬貴を養成したことである」と記されてある。すなわち、エドウィン・ダン~町村金弥~宇都宮仙太郎~町村敬貴と続く人脈が記述されており、北海道酪農の歴史を知らされた。  農場の主人公、敬貴の功績はパネルで多く語られているが、ここは「酪農の碑」であるから、町村敬貴の銅像の碑に刻まれた碑文をもって紹介しよう。碑は昭和48年10月に建立され、碑文は佐藤貢の謹書によるものである。

 町村敬貴翁 夙に酪農に志し米国に学び、生涯を斯道に捧ぐ。翁は酪農確立の信条、農地改良に心血を注ぎ、炭酸石灰の施用暗渠排水の奨励に朝野を説き、政府助成の端緒を開く。更に良草なくして良牛なきことを強調して草地の造成改良を躬行垂範し、機械化経営の先駆となり、終生乳牛を慈育改良して道産牛の名聲を世界に高む。凡て翁の不滅の功績と言うべし。翁に師事する若人跡を絶たず酪農の真髄脳裏に刻まる。 翁は晩年近代的共進会場の建設に執念し、完成を前に忽然逝去せらる。依て関係者相諮り、記念展示室を設けて偉業を讃え、銅像を建立して、翁の遺徳を顕彰す
  昭和48年10月
    町村敬貴記念事業之会
    会長 佐藤 貢  謹書

 碑文にあるようにこれは北海道産業共進会場に建立されたもので、平成8年に現在地に移設された。

 敬貴が総合的な産業共進会場の建設に心血を注いだ北海道産業共進会場は札幌市月寒に昭和47年3月完成した。この産業共進会場を使用した最初の共進会は昭和49年9月1日~3日に開催された北海道農業祭畜産共進会であった。翌50年は当組合の北海道ホルスタイン共進会が開催されている。続いて53年、57年に北海道主催の総合家畜共進会が開催されたが、53年、早来町に北海道ホルスタイン共進会場が完成したこともあって、61年の道主催の第7回北海道総合畜産共進会を最後に共進会としては使われなくなった。

 町村敬貴像は峯 季氏によって昭和48年に作製され、像は産業共進会場内の記念展示室に展示されていた。その後、道家畜改良事業団の設立5周年記念事業として、産業共進会場正門前に、「酪農の広場」が造成され、「北海道酪農の発展に心血をそそいだ先人のご苦労を偲び、その偉業をたたえ功績のあった乳牛への感謝を捧げ、今後の酪農が内外にわたる試練をのりこえて更に躍進を続けることを誓い合うため」(道家畜改良事業団 改良のみち遥か)、テルスター銅像が建立され、ここに町村敬貴像が移設された。銅像は左手前方にロイブルック テルスターの銅像、右手にローマンデール カウント クリスタンを従えて、札幌市民、道民の憩いの場として親しまれ、「酪農の広場」の使命を果たしていた。

 産業共進会場がグリーンドームと改称され、共進会に使われなくなってから、テルスター、クリスタンの銅像はそれぞれに生前活躍したホームに戻り、町村敬貴像は現在地に展示された。 「町村農場發祥之地」碑

 パネル展示の「町村農場のはじまり」には、敬貴が誕生したことから始まり、敬貴が過ごした札幌農学校時代、アメリカのラスト牧場時代を経て石狩町樽川(現在の石狩市花川)に町村農場が誕生したことが語られてある。“父・金弥は札幌農学校時代(北大の前身)時代に同期生と共に払い下げを受けた土地を、石狩郡樽川村南6線(石狩市樽川)に所有していた。敬貴はこの土地でホルスタイン種乳牛生産目的の町村農場を開設した。”とある。

 私は石狩市花川に住んでいる。今や花川地区一帯は石狩市の人口55,000人の8割以上を占め、札幌のベッドタウンにもなった。昭和40年代後半に住宅団地が造成されたのだが、以前は酪農や畑作地帯であった 。

 正月になると宗教心に関係なく、気まぐれに近くの南線神社に参拝に行くのだが、あるとき鳥居の側に小さな「町村農場発祥之地」碑があるのに気付いてびっくりした。碑は高さ1㍍に満たない小さなもので、町村農場創立80年、農場60年を記念して昭和54年に建てられたものである。

 「この地は明治30年町村金弥氏が120町歩の農場を創設した所である…長男敬貴氏は真駒内に生まれ、札幌農学校を卒業して米国に渡り滞米10年酪農業の真髄を体得して帰朝し、大正6年この地にホルスタイン種牧場を創設した…爾来数次に亘り米国より優秀な種牛を輸入し、昭和3年本土地を自作農に開放して江別に移転する迄春風秋雨10余年刻苦精励して優秀な種雄牛を全国に供給し我国酪農業の発展に偉大な貢献をした由緒ある地である。………
 当時苦楽を倶にした実習生代表
         山本 茂 謹書

とあり、山本氏は「町村敬貴先生を憶う」の著者で軽川酪農業組合の初代組合長でもある。

 この南線神社は私の家から直線にして2㎞も離れていない。もしかすると私が住んでいる現在地は町村農場跡地なのだろうか。(記:渡辺)


第1牛舎の側にある町村敬貴の銅像と碑


石狩市花川(南線神社)にある「町村發祥之地」碑


大貞八幡薦神社の大きな楠木



農器具が展示されている第1牛舎


カーネーシヨン ローヤル ヒツト パレード
  91点 昭和34年4月27日生
「本牛は昭和34年春、敬貴の選定により米国カーネーション牧場より輸入し、昭和49年死去する迄の10年間、当場は勿論のこと日本の乳牛改良の為顕著な功績を残した・・・」と刻まれてある。
 製作者  峯 孝

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宇都宮 勤 初代組合長の胸像

2000-09

 わがホルスタイン農協の玄関に入ると、すぐ右側に宇都宮 勤初代組合長の胸像がある。

 長い間、出勤の都度この胸像の前を、それも胸像に触れるほどの近くを無意識のままに通り過ぎてきた。

 私はあのやさしい、上品な組合長を知っているだけに、この胸像と生身の組合長とはどうも結びつかない。結びつけば胸像に触れるほど近くの前を頭を上げて腰を伸ばして通り過ぎることはできないだろうに・・・。

 この胸像は昭和52年、組合設立30周年記念の折に、峯 孝氏によって作製された。記念式典は11月10日札幌パークホテルにおいて開催され、除幕は孫娘(当時10歳)の手によって行われた。

 宇都宮勤氏胸像の台には次のように書かれてある。

 宇都宮勤氏は、昭和21年同志を糾合し、北海道ホルスタイン協会を設立し、さらに昭和23年北海道ホルスタイン農協を設立して、戦後崩壊の危機にさらされていた乳牛登録検定事業を正常にもどし、今日の改良事業の基礎を固められた。

 爾来30年、組合長として常に組合員の先頭に立ち、乳牛の改良事業、流通事業の推進、施設の拡充、財務の確立をはかるなど、組合運営に精根を尽し、組合員の経済的、社会的地位の向上に大きく貢献されたのである。

 組合設立30周年を迎え、ここに胸像をつくり氏の功績を永く後世に伝えるものである。

 昭和52年11月
  北海道ホルスタイン農業協同組合

 胸像をよくよく見ると左襟に乳牛のバッジが刻まれてある。これは日本ホルスタイン登録協会のバッジだろうか。あるいは昭和47年にアメリカ酪農の殿堂として知られるアメリカ・デーリィ・シュライン・クラブに名誉会員に推挙されているので、そのときに頂いていないだろうか。

 また宇都宮組合長は昭和59年10月にアメリカ・ウイスコンシン州マデソンで開催されたワールド・デーリー・エキスポで国際酪農功労賞を受賞している。この賞をもらった北海道の酪農家は宇都宮勤氏の後にも先にもいないのではないだろうか?

 さらに、組合設立30周年記念の2年後、昭和54年に酪農振興功労者として勲四等瑞宝章の栄に浴された。

 胸像の文にあるように、また記念誌「ホルスタイン農協30年のあゆみ」の座談会で語られているようにホルスタイン農協設立の目的には、戦後崩壊の危機にあった血統登録や検定事業を復活させること、斡旋事業の実施などがあった。

 組合設立以来、登録制度は折に触れ幾多の変遷があった。ホルスタイン種系登録牛が登録番号の末尾にGマークを付して血統登録牛(純血牛)に繰り入れられ、赤白斑紋(レッド)牛も血統登録牛と認められた。血統登録証明書作製も手打ちタイプからIBM、電算機処理と変わった。

 能力検定や体型審査にも大きな変遷があった。私は組合に入るや検定道具一式を入れたカバンを背負って能力検定の不時立会のため酪農家に出かけ、一月に25日近くも泊まり歩いたこともあった。このいわゆるホル協検定(HA検定)は昭和50年からは乳用牛群改良推進事業が開始されて、北海道乳牛検定協会に移行した。

 体型審査も変わった。1頭1頭、牛舎から引き出して測尺器で各部位を測定して審査した個体別の審査-高等登録制度も廃止され、後代検定や線形審査の概念が取り入れられて、牛群審査へと変わり、牛舎内で行われるようになった。

 このような登録事業の変遷の中、私は乳牛改良の一端をほんの僅か担うことができた。そうしてこの間家族を養い、退職の日を迎えることができた。これも宇都宮初代組合長が“同志を糾合し組合を設立した”お陰と退職の折は胸像に感謝とお礼を申し上げることにしよう。(記:渡辺)

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